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会員コラム

流れ者、流れ、流れて北の果て

今法律事務所 今 瞭 美

「最果ての 駅に降り立ち 雪明かり 寂しき町に 歩み入りにき」

石川啄木が釧路駅に下りたとき、読んだ歌だという。

私は、ひょっとしたら、「中国残留孤児」になっていた。毎年のように中国残留孤児の方が肉親探しに訪日すると、私は、いつもそう思う。

母の話によると、日本が戦争に負けたとき、「あけみちゃんや、弘ちゃん(私の弟)を満州人が買いにきたけど、死んでもいいから、連れて帰ってきた」とよく話した。
母の話によると、満州の人は、子供がなければ家が途絶える、嫁をもらうには大変なお金がかかる、息子がいる家は、息子の嫁に、子供がいない家は家の跡継ぎにと、日本人の子供をほしがったという。日本人の子供は、頭がよいということで、人気があったのだという。

当時、幼い子供を持つある親は、「子供だけでも元気で育ってほしい」と思い、全く、先が見えない状況で、満州の人に子供を託した。
当時、幼い子供を持つ別の親は、「死ぬの生きるも一緒。死んでもいいから連れて帰る」という気持で引き揚げ船に乗った。(引き揚げ船に乗るまでに長い、長い道のりがあった)

どちらの親が、本当に子供のことを考えた結果なのだろうか。
世の中、一寸先は闇。
私は、高校卒業迄京都の福知山で育った。母の産まれ故郷だ。
その後、東京に通算4年(最高裁判所書記官養成所で速記の研修を2年・司法研修所2年)、大阪に9年、札幌に2年、そして、昭和51年から釧路に住んでいる。

私の放浪もここで終わりになるのだろう。
今では、一番長く住んだのが、釧路ということになる。釧路に住む年月は、これからも更新される。
「なんで釧路に行ったの?」とよく聞かれる。私は、大阪で、速記官をしていた。法廷で大阪弁と格闘していた。書記官室では、よく、弁護士の品定めが行われた。当時でも、大阪の弁護士は、1000名以上だった。
いろいろな弁護士さんがいた。
当時、私は、裁判に時間がかかるということに異常に気が滅入った。
ある離婚事件は、「5歳の子供が父親の不倫の現場を目撃した」というものだったと記憶するが、その女の子が成人して結婚するまで、不倫の夫が提起した離婚事件が一審に継続していた。勿論、これは、例外中の例外だった。いろいろなことが重なってこのように長期の訴訟となったようだった。それにしても、私は、異常だと思った。

大阪の裁判所で繰り広げられる裁判の様相を毎日目撃し、私のような繊細の神経の持ち主には、到底、大都会で弁護士としてやっていくことはできないと思った。
そして、札幌にきた。
札幌にきて、7人(先輩4人・私と同期の新人3人)の合同法律事務所で勉強した。
札幌で2年間弁護士として仕事を覚えた後、全く縁故関係もなく、知り合いも一人もいない釧路に来た。
私は、札幌にいたとき、札幌弁護士会で、「弁護士過疎」の委員会にはいり、北海道の弁護士過疎状態を検討し、北海道弁護士会連合会の定期大会でシンポジュームをした。
そのようなことも原因だったのか、釧路にきた。
釧路では、女性弁護士第1号ということで、新聞等で紹介された。
それから、25年がたち、釧路弁護士会にも若くて美人の女性弁護士が入会された。
もはや、私の時代は終わった?
しかし、弁護士に対する社会の要請は、ますます大きくなっている。

今法律事務所でも、新人の弁護士さんに入っていただきたいと念願している。
大都会にはない、田舎弁護士の楽しみも多い。
是非、釧路に来てください。
是非、今法律事務所に入って下さい。