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  VOICE   No.11  

平成14年10月

勉強のプロセスとは?


 先日、お昼のテレビ番組で、『今の小中学生の約4割は、昔の落ちこぼれレベル?』といった、衝撃的な新聞記事の内容を取り上げていました。そばにいた家の者は、「まさか、いくらなんでもそれはないでしょう!」と言いましたが、実際にはどうなのでしょうか?

私は、その数字はかなり的を得ていると思います。特に、最近、小中学生の計算力が著しく低下していることを、痛切に感じます。例えば、「128を2で割って、出た答えをまた2で割って」と続けていくと、7回目に答えは1になりますが、暗算で即答できない中学生がじわじわと増えているのです。これは、「掛け算の逆の考えをすると割り算になる」という考え方が身に付いていないことを意味します。割り算が完全でなければ、当然に「分数」が得意になるはずもなく、「約分」も間違えてしまうということになるわけです。

さて、その原因はどこにあるのだろうか?と考えて行くと、『小学生の時点での練習不足』という原因に達します。 勉強には、

  1. 内容の把握(まずは勉強の内容を知り)
  2. 理解(「ははぁ、なるほど」と理解して)
  3. 記憶(覚えるべきことを覚え)
  4. 知識の定着(できるようにトレーニングをする)

という、不変のプロセスがあります。

3.の要素の大きい教科は、俗に「暗記教科」といわれますが、このサイクルはどの教科にも当てはまるものです。1.と2.を終えた段階が『わかる』というレベル、3.と4.をこなして『できる』というレベルに達するものです。(いわゆる「秀才」とは、このプロセスをとても早く、またはそのうちのいくつかを同時進行させることができる人を指すと私は考えています)




1.43倍の勉強が必要です!


 さて、現場で実際に生徒指導をすると、現在の小中学生には、3.と4.の勉強時間が大きく欠けていることを痛感します。『わかる』段階で安心してしまい、『できる』ようにするための「練習」がおろそかになっているわけです。

話はそれますが、公○式の学習指導。あれは、その部分の指導には最適です。個人的には、小学校の中学年までなら、とても有効な指導方法だと思います。

さて、学校の授業時間が減っているわけですから、3.と4.の時間を増やさなくてはなりません。小中学生の学習内容は、ご存知のように約30%が減らされました。つまり、以前の70%程の内容でしかありません。単純に、以前の学力を確保するために必要な勉強量xを計算してみると、0.7x=1より、x≒1.43。つまり、今までの1.43倍の勉強量が必要になるということになります。




家庭環境とつまづき


 小学校の低・中学年で勉強につまづく子がいます。この場合、その原因の大半は、家庭の中にあるといわれています。知能が高く素質はあるはずなのに、成績がおもわしくないという場合がありますが、その原因は、『親の無関心や無頓着』による場合が大半といえるのです。

次にあげるのは、子どもにつまづきを引き起こしやすい家庭の例です。このような問題点がある家庭は、すぐに改善しなくてはなりません。

  1. 家族全体の日常生活がルーズになっていて、子どもの心や体の安定を損なっている。
  2. 子どもへの過度の期待により、本人がプレッシャーを感じて押しつぶされている。
  3. しつけができていない。または、しつけの一貫性がなく、子どもに規律が身に付いていない。
  4. 親が学校への強い不信感を持っているため、子どもも学校・勉強への不信感を抱いている。
  5. 家庭内にもめごとが多く、子どもの精神状態が不安定になっている。
  6. 親が約束ごとにルーズであり、子どもも同様である。




教育?狂育?共育?


 事例一。先日、出勤前にある金融機関へ寄ったときのできごとです。小さな男の子と女の子を連れたお母さんがお店に入ってきました。月末でかなり混んでいたのですが、その子たちはお構いなし。お店の中をギャーギャー騒いで走り回っているのです。お母さんはというと、完全に見て見ぬフリ。まったく注意をする気配がない上に、雑誌を読み出す始末です。

待っているお客さんたちは、明らかに不機嫌になってきました。私もかなり頭にきたので、「ちょっとアンタ、いいかんげにしなさいよ!」とでも言おうと思ったところ、年配の男性が「いいかげんにしろっ!みんな迷惑しているのが分からんのか!アンタ母親だろ!」と、お母さんを怒鳴りつけました。(内心、全員が拍手喝さいモノだったと思います)

で、そのお母さんの反応は…。詫びるどころか、子どもたちへ向かって、「ほら、うるさいから、おじさん怒っているよ」という発言。もう、一同絶句といった感じでした。

事例二。最近、バス停でたまに見かけるシーンです。まだ、幼稚園に通っていないだろうと思われる、小さな子どもと若いお母さん。お母さんが先にバスを降りて、子どもに向かって「早くしなさい!」と一喝…。(子どもと一緒に歩きながら、親がはるか先へ行ってしまい、同じように子どもを叱っているシーンもたまに見ます)

事例三。交通量が多い住宅街。道路の近くで、三輪車や補助輪の付いた自転車に乗った、小さな子どもが遊んでいる。しかし、周囲を見ても親らしき人がいない…。

このようなシーンに出くわすことが増えたと思うのは、私だけでしょうか?私はそのたびに、「それって、『狂育』だろ!」と思ってしまいます。親が子どもに無関心・無頓着なら、という話以前の問題です。そういう場面を見ると、「この子の将来に幸せを…」と祈りにも似た気持ちになり、同時に、腹立たしくて悲しい複雑な気持ちになります。

『教育』とは、文字通り「教え育てる」ことですが、私はこの言葉に、昔から違和感を感じるのです。どういうことかといいますと、「人に教える」こと。「人を育てる」ことは、実に崇高な行為だと思うのです。私には、それを遂行する自信はありません。ですから、軽々しく『教育』という言葉を使うのに抵抗があるのです。(教育者などと言われたら、体がかゆくなりそうですよ!)

『「教育」は「共育」であるべき』だと思うのです。この仕事に就いた時から、ずっとそのように思ってきました。「君の能力と可能性を、一緒に引き出そう。君という人間を一緒に高めよう。そして、私自身もそうありたい」そんな願いを込めて、そう思うのです。




生徒の皆さんへ 〜私の勉強法1〜


 私が中学校、高校に通っていた頃の最も得意な教科は、いわゆる社会科、特に歴史関連でした。きっかけは、父が買い揃えてくれた『漫画 日本の歴史』を読んだ事です。もともと漫画を読むことが大好きだった私は、勉強をするように仕向けた父の策略にまんまとハマり、「昔、本当にこんな事があったんだぁ…。」と漫画で展開される歴史の世界にのめりこんでいきました。これらの本は、漫画として多少脚色されているとはいえ、史実に基づいて書かれているので、事件の流れや人物関係を理解するのに役立ちました。

そして、何より私の社会科の成績を引き上げてくれたのは、友人つまりライバルの存在でした。小学校から高校、そして当時通っていた塾までも一緒だったその友人とは、気兼ねなく何でも話せる、それでいて「コイツには負けたくない!」と思える存在でした。私は、彼を相手に普段から社会科の教材を使った遊びをしょっちゅうやっていました。地図帳を使って、指定した地名を速く見つける競争、歴史の人物クイズ、時事問題からのクイズなど、様々な形の問題を出し合いました。今思うと、それがいわゆる一問一答形式の問題を自分達で作って、解いていたことになっていたので、かなりの量の用語や重要事項を覚える手助けになりました。

何より、お互いに「何とかあいつの鼻をあかしてやりたい!」と思い、ムキになって勉強をした憶えがあります。お互いが、相手を自分の勉強の発奮材料とし、共に切磋琢磨し合った結果、楽しくも身のある勉強をすることができ、社会科だけは共に学年上位に行くことができました。

生徒の皆さん、あなたには「コイツには負けたくない」と思える競争相手はいますか?競争相手の存在は、互いに互いを磨き合い、共に上位へと進んでいける貴重な存在です。そんな友達と一緒に、この明光義塾で楽しく勉強をしていきましょう!(笠原 和裕)

 先日、塾生のお母さんから「先生方の、具体的な勉強方法を教えてほしい」とのご意見をいただきました。授業を通してそれを話すことも多いのですが、勉強方法も十人十色。複数の講師の『勉強法』を連載していく予定です。先ほど述べたように、 勉強には、

  1. 内容の把握。
  2. 理解。
  3. 記憶。
  4. 知識の定着。

という4つのプロセスがあるわけですが、それは楽なことではありません。

勉強をするということは、普通、少なからず苦痛を伴うものですが、できるだけ楽しく勉強をする方法をお伝えしたいと思っております。