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平成 18年 10月 居場所を失う子どもたち子どもたちの学力低下が叫ばれて久しいですが、私は「基礎学力が身についていないことによって、自分の居場所を見つけることができない子どもが増えている」と考えています。高校は義務教育の中学校とは違い、成績があまりに悪かったなら留年してしまいます。ある程度の勉強をすることが、当然に求められることなります。基礎学力(ここで言う基礎学力とは、中学卒業時の平均的な学力を想定しています)が身についていない子どもの中には、高校生活の中で「自分の居場所」を見出せずに学校を去って行く子が多くいます。この部分を語る人はほとんどいないので、今回は少し考えてみたいと思います。 実際に多いパターン中学校までは義務教育ですから、勉強が壊滅的でも素行が不良でも、卒業させてもらえます。ところが、その後はそうはいきません。実際に多いパターンは、@勉強がまったくダメで、それを学校の先生に指摘される。A売り言葉に買い言葉で、すぐにきれる(または、努力をしないであきらめてしまう)。Bそのまま退学してしまう。といったものです。退学したとしても、大半の子はそれから社会に出て立派にやっていますよね。私の「元ヤンキー」友達にも、そういう連中がいますし、今では立派な父親・母親になって、有能な社会人として活躍しています。「自分は将来、○○を職業にして生きていくのだから、早く世の中に出た方が自分のためになる」といった場合などは、時間がもったいないわけですから、学校をやめても何も問題ないでしょう。個人的には、そういう考え方に賛成です。 しかし、自分の将来に夢や希望を見出せずに自暴自棄になったり、引きこもってしまったり、中には自分の居場所を求めて夜の街に飛び出して、悪い大人たちの餌食にされてしまって、身も心もボロボロになってしまう子がいます。 学力は道具である私は、「学力は、世の中を豊かに暮らすための道具であり、それ以上でもそれ以下でもないもの」と思っています。しかし、その道具があまりにも貧弱で道具としての用をなさないものであったなら、それはとても悲しいことだと思います。ですから、「中学卒業までは、親は子どもの学力に責任を持つべきだ」と常々考えています。学歴社会は崩壊し、学歴・学力偏重主義が改められたのはとても良いことだと思います。しかし、とは言ってもいわゆる一般常識といわれる部分は譲れません。子供たちの学力が低下する一方で、インターネットをはじめとする情報通信産業は高度に発達し、世の中には実に膨大な量の情報が氾濫しています。便利さが増した反面、毒や罠が多く仕掛けられた社会になりつつあります。 世に中に毒や罠が多くなったのであれば、そこに生きる人間は以前よりも多くのことを学ばなければならないはずです。つまり、世代が若くなればなるほど、将来に求められる知識は多くなるはずです。ところが、現実にはその逆の方向へ進んでいます。 小学校からの英語教育実施に意義あり安倍内閣が発足し、ほぼ本決まりだった小学校からの英語教育の実施に、文部科学大臣から待ったがかかりました。賛否両論あるようですが、私は白紙撤回に大賛成です。伊吹文部科学大臣には、ぜひとも信念を貫き通していただきたいと思います。ご存知ですか?大半の小学校では漢字の書き順を教えないことを。親の世代とは比べものにならないくらいに計算練習の時間が減ってしまい、計算力ががた落ちになっていることを。「目に見えないことは理解できないもの」と、抽象的な概念を理解できない子が増えていることを。内容が易しくなったのにも関わらず、年々、確実に理数離れが進んでいることを。「まわりもそうだから」と努力をしない子が増えていることを。 現場の教員たちが悲鳴をあげ、大多数の良心的な教員たちが心を痛めていることを。できる子とできない子の学力差が驚くほど開いていることを。予想をはるかに上回る勢いで子供たちの学力が低下していることを。そして、学力が低いことで居場所を見失う子が増えていることを…。 そもそも、国語力が落ちた今の子どもたちに対して、英語教育もあったものではないでしょう。それ以前に、読み・書き・計算を徹底的に指導すべきです。政治家や文部科学省の高級官僚たちは、自分の子どもを公立小中学校に通わせているのでしょうか? 公教育の現場がどれほどひどいことになっているのか、本当にわかっているのなら、小学校からの英語教育の実施などといった馬鹿げた発想など出てこないはずです。私立・公立の区別なく、中学卒業までは社会全体が子どもたちの基礎学力に対して責任を持つ。それが教育行政のあるべき当然の姿でしょう。 親は子どもの学力に責任を持つさて、持論を展開させていただきます。先ほど述べたように、私は、「中学卒業までは、親は子どもの学力に責任を持つべきだ」と思っています。ただし、あくまで中学卒業までです。そして、その子の能力に応じてという条件がつきます。たまに、子どもが高校生になっても、勉強・勉強とまくしたてる親がいますが、あれはやめた方がいいですよね!大体、高校生になって「勉強しろ」と親に言われなきゃ勉強しないようでは始まらないし、そもそも高校生ともなると、親に言われたからって勉強をしませんから(笑)。自分の向き不向きとか、進みたい道の方向性といったものが見えてくる時期でもあります。ですから、更に勉強を必要とする道に進むか否かの判断は、本人の自主性に任せるべきだと思います。 しかし、その選択肢の前提になるものは基礎学力です。それが身についていなければ、おのずと選択の余地は限られたものになってしまいます。少し前までは、何か一つ抜きん出た才能があれば、必要以上にそれを評価するという風潮がありましたよね。でも、今は総合力・バランス力というものが要求されるようになってきたと思います。今後はより一層、それらが求められる時代になるでしょう。 実は、学習塾業界も同様です。以前であれば、授業をきちんと教えられればとりあえずはOKでしたが、現在はそれは当然のこととして、社会人としてのマナーや接客態度などが重要視されます。これからの時代に求められる人材のキーワードは、「総合力・バランス力」ということになると考えています。 8割を目指せこれも持論ですが、「公立高校入試で8割以上得点できれば、将来の選択肢は大きく広がる」と考えています。北海道の公立高校入試は300点満点ですから、8割は240点ということになります。私の経験上、公立高校入試で8割以上を得点できる力があれば、仮に高校の勉強でドロップアウトしたとしても、将来なりたい職業(学力を必要とするもの)の大半は、なることが可能だと考えています。高校入学後、更に学力を高めるか、適当にタラタラやるかは本人次第ですが、その8割以上の得点力があれば、あとはやるかやらないかの問題だけであって、進める方向性はかなり広がるものだと思います。(8割以上だと各段に可能性が高まるものという意味であって、もちろん8割未満の得点力であったとしても、可能性を否定するものではありません。念のため) 可能性を広く取る「人は、なれる可能性があるものしか目指さない」ものですよね。私のような美術のセンスのかけらもない人間が、画家やアーティストになろうなどとは夢にも思いません(笑)。同様に、学生時代に勉強が大の苦手だった人が、高度な学力を求められるような仕事を望んで目指すケースはまれですよね。将来の進むべき道が明確に定まっていて、自分がやっていく自信があるのであれば学校の勉強はどうでもいいですよね。進学なんて必要ないでしょう。でも、そうではないのなら可能性を広く取っておきたい。ですから私は、塾生には「公立高校入試で8割以上得点」を目指して欲しいと考えています。 それを達成するには、「必要とあらば、何時間でも集中して机に向かうことができる力」が求められます。そのためには「勉強をする習慣」が必要であり、更に突き詰めて考えると「日ごろの生活態度・生活習慣」という点の重要性にたどり着きます。 最近、私もほんのちょっとだけレベルアップしました(笑)。勉強ができる・できないの差をじっくりと観察していくと、「習慣」というものに原因があるんですよね。次号以降、その点について考えてみたいと思います。 |